独り言&なんらかのメモ
死ぬなら今積み重ねているなにかもが結局のところ全て無なんじゃないか。
何かする必要なんてないんじゃないか。
そういうことって一度は考えないだろうか。考えないか。わからないけども。
正直なところ何かを残しても仕方ないしただ生きてることが実は正解な気がしている。
だから「なんかよくわかんないけどやりたいから」という単純な動機で今やっていることは全て回ってる。
自分の中の見栄とか立場とか成功とか良いとか悪いとかを原動力にするとその空っぽさでニュートラルになる。虚無になる。
やりたいこともなくなったら本当に自分はただ生きている動物になれるんだろうな。
謎になにかを表現したくなったり、謎に個でありたがったりせずに済むのはいつになるんだろう。
何かする必要なんてないんじゃないか。
そういうことって一度は考えないだろうか。考えないか。わからないけども。
正直なところ何かを残しても仕方ないしただ生きてることが実は正解な気がしている。
だから「なんかよくわかんないけどやりたいから」という単純な動機で今やっていることは全て回ってる。
自分の中の見栄とか立場とか成功とか良いとか悪いとかを原動力にするとその空っぽさでニュートラルになる。虚無になる。
やりたいこともなくなったら本当に自分はただ生きている動物になれるんだろうな。
謎になにかを表現したくなったり、謎に個でありたがったりせずに済むのはいつになるんだろう。
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自分の気持ちを表現したいんだなどと宣ったにも関わらずこの更新の少なさ。
光の速さで失った自己顕示欲。そんなこんなで迎えた2022年。
今日で正月休みが終わるのだが、今朝からかぼちゃの種を剥いていた。
一昨日買ったかぼちゃからくり抜いて乾燥させておいたものだ。
ハムスターは凄い。かぼちゃの種を剥いて心からそう思った。
小型の齧歯類へのリスペクトが高まる。かぼちゃの種を剥いたことがない人にはぜひ剥いてみてほしい。結構固い。なにより正確に種を傷つけずに剥いていくのはなかなか難しい。自分は剥くのに失敗したものを端から食べる羽目になった。
そういったことで1時間くらい格闘していたと思う。
わざわざ買ったかぼちゃから種をくり抜いて、洗って、乾かして、殻を剥く。この工程は正直めちゃくちゃ面倒だ。剥くのは嫌いじゃない。今書いていることは剥きながらぼんやり考えていた事のまとめだ。一人で考え事をしながら黙々とやるのは性に合う。ただ時間と生産性でいうなら本当に非効率的だ。
しかしながら剥かれたかぼちゃの種がスーパーに並ぶまでの工程を何かが(誰かが)やってくれているという実感を得ることはできる。
あとハムスターすごい。
一番何を得たかったかというと、かぼちゃを余すことなく食べるということと、その手法を踏襲したかったというだけの話なんだけども。
今年の目標は「実用的な知識の増幅と出来ることを増やす」ことだ。
昨年は「自分の好きを伝える」みたいなふんわりとした目標だった気がするのだが、途中から健康を根ざすようになって9~10㌔近く痩せた。生活もかなり一変した。
きっかけとしては、コロナ禍の影響による健康意識向上のビッグウェーブに乗ったというわけでもなくもっと些細なことだったが。結果的に得たものは大きかったと感じている。
その代償(という書き方をするとマイナスな印象になってしまうが)としては絵を以前ほど描かなくなったということだろうか。
限られた時間の中でやりたいことが溢れて、本当に描きたくなった時に描くようになった。
これまでよりも絵を描くことが純粋に楽しい。
あと描いた絵をどこかに載せるのが億劫になってしまったがこれはマイナスか。
描いた絵を載せることに時間を割くのがもったいないと感じてしまう。その辺りは載せたくなった時に更新しようと思う。
今はアナログで絵を描くほうが楽しくほぼそちらに転じてしまっているので、ノートなどに描き散らしたものはスキャナで取り込まなくてはいけない。という個人的な心理的な壁があったりするのであった。
便利ナ現代機器、求ム。
元々絵に関わらず何かをやっていることを誰かに公開したり見られたりすることが苦手だったり興味が薄かったりで気がついたら年が明けていた。
とりあえず自分のやりたいことを少しずつ更新しながら世界の隅で生きているので良しとする。
また気が向いたらなにか書き残そうと思う。
光の速さで失った自己顕示欲。そんなこんなで迎えた2022年。
今日で正月休みが終わるのだが、今朝からかぼちゃの種を剥いていた。
一昨日買ったかぼちゃからくり抜いて乾燥させておいたものだ。
ハムスターは凄い。かぼちゃの種を剥いて心からそう思った。
小型の齧歯類へのリスペクトが高まる。かぼちゃの種を剥いたことがない人にはぜひ剥いてみてほしい。結構固い。なにより正確に種を傷つけずに剥いていくのはなかなか難しい。自分は剥くのに失敗したものを端から食べる羽目になった。
そういったことで1時間くらい格闘していたと思う。
わざわざ買ったかぼちゃから種をくり抜いて、洗って、乾かして、殻を剥く。この工程は正直めちゃくちゃ面倒だ。剥くのは嫌いじゃない。今書いていることは剥きながらぼんやり考えていた事のまとめだ。一人で考え事をしながら黙々とやるのは性に合う。ただ時間と生産性でいうなら本当に非効率的だ。
しかしながら剥かれたかぼちゃの種がスーパーに並ぶまでの工程を何かが(誰かが)やってくれているという実感を得ることはできる。
あとハムスターすごい。
一番何を得たかったかというと、かぼちゃを余すことなく食べるということと、その手法を踏襲したかったというだけの話なんだけども。
今年の目標は「実用的な知識の増幅と出来ることを増やす」ことだ。
昨年は「自分の好きを伝える」みたいなふんわりとした目標だった気がするのだが、途中から健康を根ざすようになって9~10㌔近く痩せた。生活もかなり一変した。
きっかけとしては、コロナ禍の影響による健康意識向上のビッグウェーブに乗ったというわけでもなくもっと些細なことだったが。結果的に得たものは大きかったと感じている。
その代償(という書き方をするとマイナスな印象になってしまうが)としては絵を以前ほど描かなくなったということだろうか。
限られた時間の中でやりたいことが溢れて、本当に描きたくなった時に描くようになった。
これまでよりも絵を描くことが純粋に楽しい。
あと描いた絵をどこかに載せるのが億劫になってしまったがこれはマイナスか。
描いた絵を載せることに時間を割くのがもったいないと感じてしまう。その辺りは載せたくなった時に更新しようと思う。
今はアナログで絵を描くほうが楽しくほぼそちらに転じてしまっているので、ノートなどに描き散らしたものはスキャナで取り込まなくてはいけない。という個人的な心理的な壁があったりするのであった。
便利ナ現代機器、求ム。
元々絵に関わらず何かをやっていることを誰かに公開したり見られたりすることが苦手だったり興味が薄かったりで気がついたら年が明けていた。
とりあえず自分のやりたいことを少しずつ更新しながら世界の隅で生きているので良しとする。
また気が向いたらなにか書き残そうと思う。
こうした日記を設置したのは少し自分を表現したくなったからだ。
なにか思っても消えていくだけのことも多いし、どうせなら目に見える形にしたい。
でもあまり続いた試しがない。毎回怖くなってやめる。
いつまでやるかは決めてない。嫌になったらやめる。そういうつもりで日記を始めた。
誰かに見られることを意識してしまうとちゃんと書こうと息が詰まる。
ここはただの一個人の端くれ書きで、誰が見るのだと、そんなもの好きは滅多にいないぞと何度も自分に言い聞かせつつもやっぱりもう堅苦しくなってしまってる。
何回も書き直している。もう諦めた。性分なんだと思う。
そういえばつい最近ペンネームを変えた。
ここのところYoutubeで占い師けんけんTVというチャンネルを観ている。
言っていることの真偽はわからないが、的を得ていると感じる部分もあり暇つぶしにラジオ感覚で流している。
占い師を職とする人はどうして怪しげな小物を飾ったり独特な服装をしているんだろうか、そのほうが信憑性が増すんだろうか。面白い。
けんけんさんの被っている仮面は好きだ。ペストマスク味がある。なにを考えているか読ませない不気味さがあって良い。
たくさんの動画の中で姓名判断に関する動画があったのだが、それによると名前はまさにその人を形作るものになるそうだ。
他人からその固有名詞で呼ばれることで自己を改めてそれだと認識する。生涯にかけてそれが幾度となくあるわけで、確かに大なり小なり影響はありそうだと感じた。
なので変えてみた。
URという名前の人が他にもいたからだとか気分を一新したかったとかそういった理由ももちろんあるけども。
きっちり意味を込めて第2の自分に名付けるつもりで考えてみた。愛着が湧くので良い。
いつどこで誰が考えたかわからないが名は体を表すと言う。
いつどこで誰が考えたかわからない言葉は昔生きていた賢者が残した言葉だったりする。
その意味が少しわかった気がして自分は嬉しい。
オチはない。またなにか書きたいことが浮かんだら書くことにする。
なにか思っても消えていくだけのことも多いし、どうせなら目に見える形にしたい。
でもあまり続いた試しがない。毎回怖くなってやめる。
いつまでやるかは決めてない。嫌になったらやめる。そういうつもりで日記を始めた。
誰かに見られることを意識してしまうとちゃんと書こうと息が詰まる。
ここはただの一個人の端くれ書きで、誰が見るのだと、そんなもの好きは滅多にいないぞと何度も自分に言い聞かせつつもやっぱりもう堅苦しくなってしまってる。
何回も書き直している。もう諦めた。性分なんだと思う。
そういえばつい最近ペンネームを変えた。
ここのところYoutubeで占い師けんけんTVというチャンネルを観ている。
言っていることの真偽はわからないが、的を得ていると感じる部分もあり暇つぶしにラジオ感覚で流している。
占い師を職とする人はどうして怪しげな小物を飾ったり独特な服装をしているんだろうか、そのほうが信憑性が増すんだろうか。面白い。
けんけんさんの被っている仮面は好きだ。ペストマスク味がある。なにを考えているか読ませない不気味さがあって良い。
たくさんの動画の中で姓名判断に関する動画があったのだが、それによると名前はまさにその人を形作るものになるそうだ。
他人からその固有名詞で呼ばれることで自己を改めてそれだと認識する。生涯にかけてそれが幾度となくあるわけで、確かに大なり小なり影響はありそうだと感じた。
なので変えてみた。
URという名前の人が他にもいたからだとか気分を一新したかったとかそういった理由ももちろんあるけども。
きっちり意味を込めて第2の自分に名付けるつもりで考えてみた。愛着が湧くので良い。
いつどこで誰が考えたかわからないが名は体を表すと言う。
いつどこで誰が考えたかわからない言葉は昔生きていた賢者が残した言葉だったりする。
その意味が少しわかった気がして自分は嬉しい。
オチはない。またなにか書きたいことが浮かんだら書くことにする。